「SNS、何を書く?」「普通のことでしょう」

 

FacebookやTwitterの使い方講座をやっている時に必ずと言っていいほど出る質問に

 

「わたし何も書くことないんですが…」

 

24時間生きている人に書くことが何もないというのは、余程の例外がない限りはありえません。
一日の動きを時系列に羅列すれば、書くことが山ほどあって困るくらいになるはずです。
でも、上記の質問をする方には何もないんです。

 

今まであった返答で最も印象的なやり取り

「何を書いたらいいんですか?何もないんですが」
「何でもいいから書いてみませんか」
「じゃあ、『何でもいい』って書きます」

 

ここでポイントになるのが、質問した人が持っていると思われる

 

「何を書かなければいけないのか?」「どんなことを書くべきなのか?」

 

というフィルターです。

 

Facebookのことを「リア充の巣窟」と評する人が一部にいます。
いいことをたくさん書いて自身の充実っぷりをアピールしているということなのでしょう。

日記もそうですが、書き残すことだからイベントや非日常的な出来事を書かなければいけないと思い込んでしまい、無意識のうちにフィルタリングを行った結果、書くことがないという結論になっています。
(日記については私個人の経験談)

 

何人かの「何を書けばいいの?」と質問された方に私のTwitterやFacebookでの投稿内容を見せたところ、

「そんなのでもいいの?」

とか、中には

「そんなくだらないこと書いて何が楽しいの?」

という返答がありました。

 

イベントがあったことについて書くわけでもなく、この文章のように思いのたけを綴るわけでもなく、単に「おはよう」とか「ご飯食べた」とか「空が綺麗だ」と書いているのは価値がないと考えられたのかもしれません。
でもこれって、その時点で思ったことですから実は二度とない経験なんですよね。
変にいろいろ考えた文章を書くよりも、ある意味では大変なことです。

 

別に何かを創作するわけでなく、日常をただ何となく記録することが大事なことなのです。
SNSに疲れるというのも、ひたすら非日常を追い求め続けた結果なのかもしれません。

 

ここで誤解のないように補足します。
SNSに何を求めるのかで書くことが変わるのは一向に構いません。

原則として書く内容は自由ですから、自身の主張を一生懸命書くのもよし、気になる話題を共有するもよし、なかなか痩せなくて困っている叫びを書いてもいいんです。

 

そこにもうひとつ加えるのが「寛容」というクッション材。

自分は自分、相手は相手のもつ基準があるのですから、それぞれの価値観に対して過剰に反応しないこと。
自分の中で持っているフィルターを少し外してあげることが大事でしょう。

 

もちろん、まったく考えなくてもいいわけではありません。
特に画像の投稿です。

 

長文は読まなければ何の問題もありませんが、画像は良くも悪くも一気に情報が飛び込んできます。
内容によっては炎上の危険性が高まるので、少し考えてから投稿することをおススメします。

 

様々な方と話していると、持っている悩みや疑問が十人十色であることを毎回感じます。
だからこそ、強い価値観で当てはめるのではなく個々の状況に合わせた形で柔軟に対応することが重要なのだと思い、仕事に臨んでいます。

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